工房日記(日々徒然)
日常茶飯。亀更新になりますがよろしくお願いします。
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ジェネジャンSP感想
そうか、奥山さん、ここにも出てらしたんだ・・。
奥山さんて、ブログでガンの闘病記を発表してて、それが話題になってさ。前NHKでも彼のドキュメントやってて、それ見て確かこの日記にも感想書いてたと思ったが。
去年の4月に、書き下ろしの小説を出版した直後に亡くなってね。
あ、この日記、微妙にメンタル系なんで、暗いのが嫌いな方はここより下は読まないようにしてくださいね。
奥山さんて、ブログでガンの闘病記を発表してて、それが話題になってさ。前NHKでも彼のドキュメントやってて、それ見て確かこの日記にも感想書いてたと思ったが。
去年の4月に、書き下ろしの小説を出版した直後に亡くなってね。
あ、この日記、微妙にメンタル系なんで、暗いのが嫌いな方はここより下は読まないようにしてくださいね。
今回のジェネジャンSPは3回目の『命』を考える回だったんで、まあ、最初から重い雰囲気になる事は分かっていたんですが。常日頃、どちらかといえば死ぬ方にベクトルがいってる私としては、あんま人様が真剣にこの手の話をしてるのを聞く機会がないんで、それで録画しといて今日見たんですけどね。
私は潜在的自殺志願者ではあるんだが(一時期遺書持ち歩いてたし)でも死ぬなら1人で死ぬよ。つか、1人だと思うから、1人で生きててもしょうがないと思うから死ぬのであって、このまま生きてても他人様に迷惑かけるばっかりだと思うから死ぬのであって・・一緒に死ぬという人がいたら逆に死なないと思うというか、勝手かもしれないが、そいつには私の分まで生きていて欲しいと思うな。自分が駄目だった分。
何かさ、心中っていうと聞こえがいいというか、日本の場合はある種心中に肯定的なとこあるけど・・・私はどんな形であれ相手が望んでいたのであれ、人殺しには違いないと思うし。
もし誰かに一緒に死んでくれないかと言われたとして・・無論生きる方に考え直してくれるよう説得はするけど、それで駄目だったら、私を先に殺してもらうか私に自分を先に殺させるか選択してくれと言うだろうな、多分。もし本当に好きな人から真剣に頼まれればね。
でもどちらにしても一緒には死なないんだが。この世で敢えてそういう事をしでかしたのなら、死に逃げするより前にきっちり法の許で裁きは受けるよ。
だから、正直、集団自殺する人の心理は私にはよく分からないのよね。
本当に死にたいなら脇目もふらずなり振り構わず死んでるでしょうし、そこで躊躇してるって事は出来れば生きていたいって事なんだと思うし・・・同じように躊躇ってる人の背中を間接的にでも押してしまって後悔しないか?自分だけの事なら、それも自業自得であると諦めもつくかもしれないが、人の命の事はそれこそ取り返しがつかない。その、奪った命の重みって死んでも消えるものではないだろうし、それをずっと背負う覚悟があって言ってるの?自分の人生(命)だって背負い切れないから死のうってのに?
少なくとも私はよっぽどじゃなければそこまでの覚悟はつけられない。だから自殺するにしても人を巻き込むのは御免だな。
番組中に、ペトロさんだっけ?(名前違ってたらすみません)奥山さんの葬式に花も出さなきゃ本も読んでないしかなり時間経ってから彼が死んだ事知ったってんで出演者に腹立ててたけど・・・宇梶さんもおっしゃっていたが、表立って、目に見える形で彼を偲ぶ事はもちろん大事な事だし行動に移す事は大切な事だけど、そうしなかった事(人)が悪いとか優劣つけたり、非難する問題ではないと思う。
私から見ると・・・生きる事と物を書く事がほぼ同義で、彼と同じように、死ぬなら出来れば作家として死にたいと思っている人間にとって、彼が生きてる間に自分の創作物を本という形で発行出来た事が、例え仮に彼の残り何十年かの寿命と引き換えだったのだとしても、私は、やっぱり奥山さんが羨ましい。なりたいものになれてよかったねって思う。何十年生きてられても思いが遂げられないなら意味ないじゃんって思う。命の期限に間に合ってよかった、凄いよな、よく頑張ったよな~と思う。
・・・ただ、次があるのなら、今度はもうちょっと長生き出来たらいいよねって、それだけだ。
何て言うんだろ、病気の事や余命の事で、そして創作活動の事で、辛かっただろうとか苦しかっただろうとかもっといろいろ書きたかったろう、だから不幸だった、可哀想な事だ、悲しいしやるせないっていうの・・・・本人がそう思うのはともかく、他人がそんな風に評価するのはどうなんだろうね。
・・その、当人でない他人は、本当にその人が好きであったのなら、病気の事も含めて、病気だってその人を構成してたものの一部として肯定しようとするのが筋ではないのかっていうか。何かさ、そこを否定したり残念がったりする権利はないっていうかさ、言っても詮無い気がするんだ。それは、かけがえのないその人の人生そのものを否定してるようで・・本人が思うのはともかく、周りが言う事ではないと思う。
私は物を書く時、自分の中のありとあらゆるものを総動員しないと書けない人なんで・・・いきおい、書くモードに入っちゃうと一切(他の用事で)使えない人になっちゃうんだけど。下手すると食事も睡眠も摂らないんで人としてかなりヤバいんだけど。
奥山さんが同じタイプだったのかどうかはさておき。
その、総動員する自分を形造っている様々なものって、出自がはっきりしてるっていうか影響されたって私の方で自覚してるものばかりじゃないわけじゃん。もう思い出せなくても影響されたものもあって、それだって確かに、私は自分が物を書く際に使っているのだろうなあと思う。自覚がなくても。
奥山さんが、自分の事を忘れないで欲しいといってるのは、そういう意味じゃないかなあ。
数ある出版物、その他芸術作品、創作物で、不朽の名作として、その形を保ったまま人の心に残り続けるものなんて全体の中のほんの一握りじゃない。自分の作品がそうなれるに越した事はないしそこを目指しているわけだけど、例えそうじゃなくてもさ・・その、読んだ人の心の中に植えた草花(作品)が枯れて、そのものの形骸としては消えて忘れ去られたとしても、そこからその人が(自覚してるしてないに関わらず)何かを生んだのならば、新しく生んだものとどこかで繋がっているのならば、形骸は失われてもその本質は失われていない、死んではいない、形は変わっても生き続けてる・・・それが、本質的に『忘れ去られていない』って事なんじゃないのかと思うんだ。
少なくとも、私は、思い出せる事も思い出せない事も、私個人の感情としては辛い事もそうでない事も全部、物を書く上では、無駄なもの、役に立たないものは何もないと思ってる。
彼が書いたもの、彼の存在そのものを忘れないったってそれは誰でも出来るものではないと思う。人間は時間の流れに沿って生きていて、いろんな物事を徐々に忘れていくのは、決して悪い事でも不自然な事でもないんじゃなかろうか。
そのものの形だけにこだわっていれば、忘れ去られる事は悲しいやるせない事なんだけど、形ではなくその本質をどこかで繋いでいく事が出来れば、すなわちそれこそがずっと生きてるって事だからきっと寂しくはない。そんな気がするというか、そうであればいいと心から思うよ。
私は潜在的自殺志願者ではあるんだが(一時期遺書持ち歩いてたし)でも死ぬなら1人で死ぬよ。つか、1人だと思うから、1人で生きててもしょうがないと思うから死ぬのであって、このまま生きてても他人様に迷惑かけるばっかりだと思うから死ぬのであって・・一緒に死ぬという人がいたら逆に死なないと思うというか、勝手かもしれないが、そいつには私の分まで生きていて欲しいと思うな。自分が駄目だった分。
何かさ、心中っていうと聞こえがいいというか、日本の場合はある種心中に肯定的なとこあるけど・・・私はどんな形であれ相手が望んでいたのであれ、人殺しには違いないと思うし。
もし誰かに一緒に死んでくれないかと言われたとして・・無論生きる方に考え直してくれるよう説得はするけど、それで駄目だったら、私を先に殺してもらうか私に自分を先に殺させるか選択してくれと言うだろうな、多分。もし本当に好きな人から真剣に頼まれればね。
でもどちらにしても一緒には死なないんだが。この世で敢えてそういう事をしでかしたのなら、死に逃げするより前にきっちり法の許で裁きは受けるよ。
だから、正直、集団自殺する人の心理は私にはよく分からないのよね。
本当に死にたいなら脇目もふらずなり振り構わず死んでるでしょうし、そこで躊躇してるって事は出来れば生きていたいって事なんだと思うし・・・同じように躊躇ってる人の背中を間接的にでも押してしまって後悔しないか?自分だけの事なら、それも自業自得であると諦めもつくかもしれないが、人の命の事はそれこそ取り返しがつかない。その、奪った命の重みって死んでも消えるものではないだろうし、それをずっと背負う覚悟があって言ってるの?自分の人生(命)だって背負い切れないから死のうってのに?
少なくとも私はよっぽどじゃなければそこまでの覚悟はつけられない。だから自殺するにしても人を巻き込むのは御免だな。
番組中に、ペトロさんだっけ?(名前違ってたらすみません)奥山さんの葬式に花も出さなきゃ本も読んでないしかなり時間経ってから彼が死んだ事知ったってんで出演者に腹立ててたけど・・・宇梶さんもおっしゃっていたが、表立って、目に見える形で彼を偲ぶ事はもちろん大事な事だし行動に移す事は大切な事だけど、そうしなかった事(人)が悪いとか優劣つけたり、非難する問題ではないと思う。
私から見ると・・・生きる事と物を書く事がほぼ同義で、彼と同じように、死ぬなら出来れば作家として死にたいと思っている人間にとって、彼が生きてる間に自分の創作物を本という形で発行出来た事が、例え仮に彼の残り何十年かの寿命と引き換えだったのだとしても、私は、やっぱり奥山さんが羨ましい。なりたいものになれてよかったねって思う。何十年生きてられても思いが遂げられないなら意味ないじゃんって思う。命の期限に間に合ってよかった、凄いよな、よく頑張ったよな~と思う。
・・・ただ、次があるのなら、今度はもうちょっと長生き出来たらいいよねって、それだけだ。
何て言うんだろ、病気の事や余命の事で、そして創作活動の事で、辛かっただろうとか苦しかっただろうとかもっといろいろ書きたかったろう、だから不幸だった、可哀想な事だ、悲しいしやるせないっていうの・・・・本人がそう思うのはともかく、他人がそんな風に評価するのはどうなんだろうね。
・・その、当人でない他人は、本当にその人が好きであったのなら、病気の事も含めて、病気だってその人を構成してたものの一部として肯定しようとするのが筋ではないのかっていうか。何かさ、そこを否定したり残念がったりする権利はないっていうかさ、言っても詮無い気がするんだ。それは、かけがえのないその人の人生そのものを否定してるようで・・本人が思うのはともかく、周りが言う事ではないと思う。
私は物を書く時、自分の中のありとあらゆるものを総動員しないと書けない人なんで・・・いきおい、書くモードに入っちゃうと一切(他の用事で)使えない人になっちゃうんだけど。下手すると食事も睡眠も摂らないんで人としてかなりヤバいんだけど。
奥山さんが同じタイプだったのかどうかはさておき。
その、総動員する自分を形造っている様々なものって、出自がはっきりしてるっていうか影響されたって私の方で自覚してるものばかりじゃないわけじゃん。もう思い出せなくても影響されたものもあって、それだって確かに、私は自分が物を書く際に使っているのだろうなあと思う。自覚がなくても。
奥山さんが、自分の事を忘れないで欲しいといってるのは、そういう意味じゃないかなあ。
数ある出版物、その他芸術作品、創作物で、不朽の名作として、その形を保ったまま人の心に残り続けるものなんて全体の中のほんの一握りじゃない。自分の作品がそうなれるに越した事はないしそこを目指しているわけだけど、例えそうじゃなくてもさ・・その、読んだ人の心の中に植えた草花(作品)が枯れて、そのものの形骸としては消えて忘れ去られたとしても、そこからその人が(自覚してるしてないに関わらず)何かを生んだのならば、新しく生んだものとどこかで繋がっているのならば、形骸は失われてもその本質は失われていない、死んではいない、形は変わっても生き続けてる・・・それが、本質的に『忘れ去られていない』って事なんじゃないのかと思うんだ。
少なくとも、私は、思い出せる事も思い出せない事も、私個人の感情としては辛い事もそうでない事も全部、物を書く上では、無駄なもの、役に立たないものは何もないと思ってる。
彼が書いたもの、彼の存在そのものを忘れないったってそれは誰でも出来るものではないと思う。人間は時間の流れに沿って生きていて、いろんな物事を徐々に忘れていくのは、決して悪い事でも不自然な事でもないんじゃなかろうか。
そのものの形だけにこだわっていれば、忘れ去られる事は悲しいやるせない事なんだけど、形ではなくその本質をどこかで繋いでいく事が出来れば、すなわちそれこそがずっと生きてるって事だからきっと寂しくはない。そんな気がするというか、そうであればいいと心から思うよ。
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