工房日記(日々徒然)
日常茶飯。亀更新になりますがよろしくお願いします。
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デフォルトの差分(根暗注意)
某所のトピの、トピ主さんの最初の文面を読んで、個人的にちょっとピンとこなかった部分があった。
いや、多分私の方が特殊なんだろうと思うが。
御自分の信じている事を受け容れてもらえなかったら『とても歯がゆく悲しい』という事は、つまりは信じて受け容れてもらう事がトピ主さんにとってデフォルト(当たり前)だって事なんだろうか?
私は、スピリチュアルな知識や事象に限らず、これまで生きてきた中で自分の言う事にまともに取り合ってもらえない事の方がデフォルトだったので、ああ、普通の人というのは信じてもらえないと歯がゆいんだ・・なるほどねえと思ったんだけど。
いや、多分私の方が特殊なんだろうと思うが。
御自分の信じている事を受け容れてもらえなかったら『とても歯がゆく悲しい』という事は、つまりは信じて受け容れてもらう事がトピ主さんにとってデフォルト(当たり前)だって事なんだろうか?
私は、スピリチュアルな知識や事象に限らず、これまで生きてきた中で自分の言う事にまともに取り合ってもらえない事の方がデフォルトだったので、ああ、普通の人というのは信じてもらえないと歯がゆいんだ・・なるほどねえと思ったんだけど。
言葉は悪いけど、『私が何を思い何を主張しようと、他の人にとってはどうでもいい事、聞く耳を持ってもらえない事』なのが、少なくとも私の12年の学生生活の殆ど全てにおいては、当たり前の日常だったからね(家の中においては今でもそうかな?)
私が現在に至ってもあまり人の顔や名前を覚えないのは、ぶっちゃけ学生時代に同級生の顔や名前を憶えててもしょうがなかった(仲良くなれるわけではなかった)という事の名残りなんだろうし、前の日記のバトン(第108代目バトン)の中で、物を書くという分野以外に、3次元的な物事でこだわっている事は殆ど全くないと言ったのも、この世に対して執着が薄いと言ったのも・・私の内面では自分というものを強く保っている必要があったわけだけど、私が何を思おうと何にこだわろうとこだわるまいと、それを他人に主張しようとするまいと、(少なくとも学生時代の私の周囲の)他人にはどうでもいい事だったので、私的にわざわざ他人に強く自己主張する必要性を感じなかったから、という事の名残りだと思われるわけで。
と書くと、普通の学生生活を送ってきた方からすると、私が随分不幸に見えるかもしれない。あるいは同情を惹こうとしてると思われるかもしれないし、そういう環境にあったから人間不信に陥ったんだと解釈されるかもしれない。
・・いや、いつもいつも、人と較べて私は恵まれていない、当時自分が置かれていた状況が悲しくて辛いと私が思いながら12年過ごしていたのなら、そりゃあ不幸だったろうし、そもそも12年に渡って耐えられるものではなかったと思うが、さっきも書いたけど、私にとってはそれが当たり前の日常だったからね。人は誰も私の感情や主張に(もし主張しても)取り合わない・・それを、私は(比較的早々に)まあ世の中そんなもんでしょうと思っていて・・なもんで、いくつかショックを受けたり悲しかったり悔しかった出来事もあるにはあるんだが、基本的には特定の誰かを憎むとか恨むというより、まあ人間なんてそんなものって事で、当時の自分には自分が特別不幸だという認識はなかったんだよね。というか今も不幸だったとは思っていない。随分欠けてる部分が多いなあとは思うが。
人間不信に関しては・・うーん、それって、途中までは全般的に人を信じていて、でも何かあった結果、信じられなくなりましたっていうのが該当するんじゃないかと思うんだが・・・私はそれ以前に、人を信じてみた経験が多分あんまりないというか、そういう感覚がよく分かってないんだろうと思われるんで(苦笑)・・ぶっちゃけ、どういう事をすれば、私が人を信じてるという事を人にも信じてもらえるのかを是非お聞きしたいくらいなんだけど(爆)
ちょっと話を戻すと。
私が気が付いてないだけかもしれないが、少なくとも私の認識の上では、私が信じて欲しかった事を(誰かに)信じてもらえた経験が私にはないので、世の中はそんなものと思ってる人間からすると、誰が信じてくれなくても、自分が信じていたければ信じているだろうし、人に何か言われてぐらついたり、仲間になってもらえないのが寂しいのであれば、それは信念と呼べる程確固としたものではないって事で、まあ宗旨替えしても問題はないかな・・って考えに至る次第で。
正直、信じてもらえなかったから歯がゆいって何?と思わなくもないわけよ。私の境遇で、そういう物事の1つ1つでいちいち悲しんだり相手を恨んだりしてたら、とても身が保たなかったもの。
振り返ってみて・・それが良い悪いはさておいて、別に(自分の外と比較して)正しいと主張したいわけではないんだが、『私が何を思い何を主張しようと、他の人にとってはどうでもいい事、聞く耳を持ってもらえない事』というのがデフォルトで、(そう思っていれば一切傷付く事がなかったというわけではないが)世の中そんなもんでしょうというスタンスを保っていたのは、私なりの処世術だったんだろうなと思う。まあおかげで随分歪んだ人間に育ってしまったわけだが(苦笑)当時の私にとってそれが一番いい方法で、他にいい方法が思い付かなかったというのは確かなんじゃないかな。
・・いや、一番すさまじかったのは中学3年間だが(あ、でもちゃんと学校には行ったよ?あの頃は不登校なんて選択肢はなかったというのもあるけど、家人に無闇に心配されるのも煩わしかったし)12年トータルで、自分のありとあらゆる感情を一切自分の裡に封じてきた反動が今になって出てきてるというか、麻薬じゃないがフラッシュバックしてる部分もあるにはあるけど、こうしてちゃんと分析して客観視する事によって『もう終わった事』と自分に認識させるのは、自分の為にはいい事だと思ってるよ。それが出来るまでに15年かかってるけどね。
問題なのは『私が何を思い何を主張しようと、他の人にとってはどうでもいい事、聞く耳を持ってもらえない事』がデフォルトなのを今も引き摺っちゃってる点かな(爆)当時はそれが必要な処世術だったけど、今はいい加減この認識は改めなくちゃいかんなあという自覚は一応あるんだけど、なかなか改まらないんで、そういう意味合いで、普通の人には随分扱いにくい人間だったら申し訳ないと思う次第で。
まあそんなこんなで、自分にとっては当たり前でも、他の人には全然当たり前じゃない事が私の場合人より多いんだけど・・それでたまにヘコむ事もあるけど、大目に見てやって、と言ってみるテスト(笑)
私が現在に至ってもあまり人の顔や名前を覚えないのは、ぶっちゃけ学生時代に同級生の顔や名前を憶えててもしょうがなかった(仲良くなれるわけではなかった)という事の名残りなんだろうし、前の日記のバトン(第108代目バトン)の中で、物を書くという分野以外に、3次元的な物事でこだわっている事は殆ど全くないと言ったのも、この世に対して執着が薄いと言ったのも・・私の内面では自分というものを強く保っている必要があったわけだけど、私が何を思おうと何にこだわろうとこだわるまいと、それを他人に主張しようとするまいと、(少なくとも学生時代の私の周囲の)他人にはどうでもいい事だったので、私的にわざわざ他人に強く自己主張する必要性を感じなかったから、という事の名残りだと思われるわけで。
と書くと、普通の学生生活を送ってきた方からすると、私が随分不幸に見えるかもしれない。あるいは同情を惹こうとしてると思われるかもしれないし、そういう環境にあったから人間不信に陥ったんだと解釈されるかもしれない。
・・いや、いつもいつも、人と較べて私は恵まれていない、当時自分が置かれていた状況が悲しくて辛いと私が思いながら12年過ごしていたのなら、そりゃあ不幸だったろうし、そもそも12年に渡って耐えられるものではなかったと思うが、さっきも書いたけど、私にとってはそれが当たり前の日常だったからね。人は誰も私の感情や主張に(もし主張しても)取り合わない・・それを、私は(比較的早々に)まあ世の中そんなもんでしょうと思っていて・・なもんで、いくつかショックを受けたり悲しかったり悔しかった出来事もあるにはあるんだが、基本的には特定の誰かを憎むとか恨むというより、まあ人間なんてそんなものって事で、当時の自分には自分が特別不幸だという認識はなかったんだよね。というか今も不幸だったとは思っていない。随分欠けてる部分が多いなあとは思うが。
人間不信に関しては・・うーん、それって、途中までは全般的に人を信じていて、でも何かあった結果、信じられなくなりましたっていうのが該当するんじゃないかと思うんだが・・・私はそれ以前に、人を信じてみた経験が多分あんまりないというか、そういう感覚がよく分かってないんだろうと思われるんで(苦笑)・・ぶっちゃけ、どういう事をすれば、私が人を信じてるという事を人にも信じてもらえるのかを是非お聞きしたいくらいなんだけど(爆)
ちょっと話を戻すと。
私が気が付いてないだけかもしれないが、少なくとも私の認識の上では、私が信じて欲しかった事を(誰かに)信じてもらえた経験が私にはないので、世の中はそんなものと思ってる人間からすると、誰が信じてくれなくても、自分が信じていたければ信じているだろうし、人に何か言われてぐらついたり、仲間になってもらえないのが寂しいのであれば、それは信念と呼べる程確固としたものではないって事で、まあ宗旨替えしても問題はないかな・・って考えに至る次第で。
正直、信じてもらえなかったから歯がゆいって何?と思わなくもないわけよ。私の境遇で、そういう物事の1つ1つでいちいち悲しんだり相手を恨んだりしてたら、とても身が保たなかったもの。
振り返ってみて・・それが良い悪いはさておいて、別に(自分の外と比較して)正しいと主張したいわけではないんだが、『私が何を思い何を主張しようと、他の人にとってはどうでもいい事、聞く耳を持ってもらえない事』というのがデフォルトで、(そう思っていれば一切傷付く事がなかったというわけではないが)世の中そんなもんでしょうというスタンスを保っていたのは、私なりの処世術だったんだろうなと思う。まあおかげで随分歪んだ人間に育ってしまったわけだが(苦笑)当時の私にとってそれが一番いい方法で、他にいい方法が思い付かなかったというのは確かなんじゃないかな。
・・いや、一番すさまじかったのは中学3年間だが(あ、でもちゃんと学校には行ったよ?あの頃は不登校なんて選択肢はなかったというのもあるけど、家人に無闇に心配されるのも煩わしかったし)12年トータルで、自分のありとあらゆる感情を一切自分の裡に封じてきた反動が今になって出てきてるというか、麻薬じゃないがフラッシュバックしてる部分もあるにはあるけど、こうしてちゃんと分析して客観視する事によって『もう終わった事』と自分に認識させるのは、自分の為にはいい事だと思ってるよ。それが出来るまでに15年かかってるけどね。
問題なのは『私が何を思い何を主張しようと、他の人にとってはどうでもいい事、聞く耳を持ってもらえない事』がデフォルトなのを今も引き摺っちゃってる点かな(爆)当時はそれが必要な処世術だったけど、今はいい加減この認識は改めなくちゃいかんなあという自覚は一応あるんだけど、なかなか改まらないんで、そういう意味合いで、普通の人には随分扱いにくい人間だったら申し訳ないと思う次第で。
まあそんなこんなで、自分にとっては当たり前でも、他の人には全然当たり前じゃない事が私の場合人より多いんだけど・・それでたまにヘコむ事もあるけど、大目に見てやって、と言ってみるテスト(笑)
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